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近況報告
東京都議会議員選挙が近づいてきました。コロナ禍という今までに経験しない選挙準備に各党、各候補者、四苦八苦しながらも、当選のために事前運動に精を出しているようです。振り返ってみると、私も昔はこの時期、半ベソかきながら走り回っていたことを思い出します。
私が、東京都議会議員の引退を決意し、発表してから早くも4年が過ぎたのだなと、時の流れの速さをしみじみと感じています。当時、ご支援、応援頂いた皆様、改めて御礼申しあげます。本当にありがとうございました。あれから4年が過ぎ、次の都議会議員選挙を間近にして、4年前のことと近況を報告したいと思います。
私は、奈良県生駒市に育ち、大阪明星高校(暁星高校の姉妹校)立命館大学経済学部(後に早稲田大学大学院、大学では、海外関係の就職を夢見て英語能力の習得に専念)卒業後、富士通株式会社に入社、海外営業部に配属され、オーストラリア、ニュージーランドを担当しました。11年間海外関係の仕事中心の富士通にお世話になりましたが、その頃から(実際は、もっと昔から)政治家になりたいという夢を抑えきれず、楽しかった富士通を退職し、一人で政治活動を始めました。(安定していた富士通を退職し、風来坊になったことを新婚だった妻は不安がっていましたが)その後、ひょんなことから、埼玉県の参議院議員選挙を手伝うことになりました。その当時は、まだ、2人っこ代表の旧民主党で、埼玉県に衆議院議員は、細川律夫議員と駆け出しの枝野幸男議員しかいませんでした。(後に新進党が解体し、上田清議員が参加して来ました)その参議院議員選挙に辛勝したのですが、その活動を見て頂いていた細川律夫議員から公設第一秘書にと誘って頂きました。そこで3年間第一秘書として政治の基礎を学び、2001年足立区の都議候補となり出馬致しました。残念ながら、僅差で落選(最大獲票落選者)しました。すぐに、4年後再挑戦を決意、発表しました。しかしながら、サラリーマン家庭の出身であり、自らもサラリーマンとして生活してきた私です。資金があるとは到底言えない状況でした。その状況を助けて頂いたのが、森ビル株式会社、森稔社長でした。森ビル株式会社のおかげで、活動を4年間続けながら、家庭を守ることができました。
4年後、民主党にある程度風が吹き始めていました。その勢いの中で、足立区は、2人擁立することが決定しました。私と、区議会議員を4期務められ、衆議院議員の候補者となって、僅差で敗れたベテランの方でした。大変厳しい選挙となりましたが、4年間継続して活動することができたこと、私が一番若かったことなどが影響し、私1人だけが当選することができました。
その後は、与党自由民主党の失策が続き、民主党への大きな期待が生まれました。そのような状況の下で2期目の選挙が行われましたが、ものすごい追い風を感じました。要するに落選する心配は全くなく、何位で当選できるかなんて考えていました。私以外にもう1人新人を擁立しましたが、結果は、ダントツの1位、2位でした。民主党公認候補者の殆どが当選することとなり、都議会で第1党になりました。その直後、衆議院選挙が行われ、政権交代が実現したわけです。しかし、ご存知のように、政権運営の経験の無さに加え、東日本大震災や党内での足の引っ張り合いなどにより、民主党政権は3年強で幕を閉じる事となりました。民主党への期待、政権交代への期待が大きかっただけに失望感はさらに大きく、民主党に対する批判はとても強いものがありました。そのような状況の中、政権を失った半年後に3期目の選挙がありました。民主党を見限り、他党へ移る仲間も多くいましたが(前回当選した新人も他党へ移籍)私は、自分を育ててくれた民主党で戦い抜こうと頑張りました。多くの仲間が討ち死にする猛烈な逆風の中、なんとか最下位で当選することができました。しかし、当選した仲間は少なく、共産党よりも少数の第4党にまでなってしまいました。その時点では、山あり谷ありだから、4年後、少しは状況も好転するだろうと考え政治活動に精を出していました。しかし、状況はさらに悪くなっていく一方で、その状況に加え選挙前に小池知事が誕生し、都民ファーストブームが巻き起こりました。仲間の半数は都民ファーストに移って行きましたが、私は前回同様、民主党(当時は民進党)で頑張ろうと決意しました。私も選挙に対して十分な準備を進め、たとえ負けても最後まで戦い抜こうと考えていました。しかし、選挙が近づくにつれ、都民ファーストのブームはさらに大きくなり、民主党が(当時は民進党)足立区で勝ち残る可能性は全く無くなっていました。仲の良いマスコミ関係者からも「大西さん大変だよ、世論調査では、無名の都民ファーストの新人がトップ当選、民進党に勝ち目は全く無い」というものでした。自民、公明、共産としっかりした組織を持つ政党が勝ち、浮動票の殆どが都民ファーストへ行くという構図、すなわち、そこに私の場所が無いのは明白でした。
その頃、小さな幼稚園を運営する学校法人の経営を任せたいという話もあり、また、私のような関西人を3期12年間も都議会に送って頂いたことを感謝し、これからは「子どもが大好き」を実践で行っていこうと決めた次第です。
そこで、引退を発表することになりましたが、「負ける事が見えたから」とは言えず、健康上の問題としたのです。その後、多くの方々に「体は大丈夫なの?」と聞かれ、心苦しかったです。申しわけございませんでした。体は、なんの問題もありません。(最近は腰が痛いですが。)
選挙に不出馬を表明後、先ほどの小さな幼稚園(正確には認定こども園)を運営する学校法人の理事長に就任。就学前教育の責任者となりました。そこで、就学前教育が人生に及ぼす影響などを多く学びました。就学前教育の充実度が人生における幸福度と強い関係があるとする世界の論文を多く読み、就学前教育の重要性を強く認識しました。丁度その頃、政府が強く進めた待機児童解消政策の波に乗り、千葉県八千代市に1園、その次の年に足立区に1園、新たな保育園を開園致しました。現在は、それら3園を運営する学校法人の理事長として、日々子どもたちと楽しく遊んでいます。
この理事長職とは別に、今までの経験を買われ、何社かの会社の顧問や相談役にもなって色々な活動に尽力しています。更に友人と新たな会社も立ち上げ、なかなか忙しい、充実した日々を送っています。
一方、プライベートでは、コロナ禍の中で行動を制限され寂しい日々も送っている面もあります。私の趣味といえば、①海外旅行 ②ワイン ③ゴルフ がメインなのですが、最大の趣味である海外旅行は、コロナが始まる前である一昨年までは、ほぼ毎年(議員時代を含め)10回近く海外に行っていましたが、コロナ禍で、1度も行くことがなくなりました。折角取得したJALダイヤモンドステイタスも宝の持ち腐れとなってしまっています。2番目のワインは、楽しいワイン会を開くことが出来ないのが残念ですが、世界中のワインを取り寄せ、毎日、家で楽しんでいます。3番目のゴルフは、感染拡大防止対策をきっちり取っているゴルフ場の会員になり、週に1度以上は通っています。(なかなか、腕は上がりませんが)
その他では、電車を使うことが殆ど無くなった事もあり、移動の為に、家族用の車とは別に、少し派手な色のツードアーのスポーツカーを買って楽しんでいます。また、たまに、気の合う友人と野球をしたりしています。
最近は、以前のように人に気を使うことも少なくなり、人の目を気にすることも無くなり、更に、朝の駅に立つ必要も無くなり、とても自由な環境の中で子どもたちの笑顔に囲まれ気楽な日々を過ごしています。
家族も、皆健康で元気に過ごしています。長男は明治大学を卒業、就職しました。次男は、青山学院大学で青春を謳歌しています。三男は、まだ高校生ですが、バスケットにハマっています。妻は、いつ職を失うかわからない政治家の仕事から、安定性のある仕事になったためか、経済的な心配が無くなったことでとてもリラックスしているようです。
もう政治の世界に戻ることは考えていませんが、就学前教育には多くの課題があることがわかりました。子ども庁創設に向けて新しい制度が創られようとしていますが、何故、認定こども園制度が上手くいかなかったのか。幼稚園、保育園の課題を整理し、今の制度をツギハギするだけではなく、抜本的に改革して行って欲しいと思います。必要ならば、そのような場面では、はっきりと発言したいと考えています。
以上、4年前の選挙不出馬の理由と最近の近況を報告させて頂きました。改めて、皆様のご支援に対して御礼を申しあげます。また、都議会議員選挙が行われますが、本当に都民の暮らしが良くなるために働く議員が当選して下さることを願っています。皆様方のご多幸、ご健勝を祈念し、久しぶりの近況報告と致します。
大西さとる
私が、東京都議会議員の引退を決意し、発表してから早くも4年が過ぎたのだなと、時の流れの速さをしみじみと感じています。当時、ご支援、応援頂いた皆様、改めて御礼申しあげます。本当にありがとうございました。あれから4年が過ぎ、次の都議会議員選挙を間近にして、4年前のことと近況を報告したいと思います。
私は、奈良県生駒市に育ち、大阪明星高校(暁星高校の姉妹校)立命館大学経済学部(後に早稲田大学大学院、大学では、海外関係の就職を夢見て英語能力の習得に専念)卒業後、富士通株式会社に入社、海外営業部に配属され、オーストラリア、ニュージーランドを担当しました。11年間海外関係の仕事中心の富士通にお世話になりましたが、その頃から(実際は、もっと昔から)政治家になりたいという夢を抑えきれず、楽しかった富士通を退職し、一人で政治活動を始めました。(安定していた富士通を退職し、風来坊になったことを新婚だった妻は不安がっていましたが)その後、ひょんなことから、埼玉県の参議院議員選挙を手伝うことになりました。その当時は、まだ、2人っこ代表の旧民主党で、埼玉県に衆議院議員は、細川律夫議員と駆け出しの枝野幸男議員しかいませんでした。(後に新進党が解体し、上田清議員が参加して来ました)その参議院議員選挙に辛勝したのですが、その活動を見て頂いていた細川律夫議員から公設第一秘書にと誘って頂きました。そこで3年間第一秘書として政治の基礎を学び、2001年足立区の都議候補となり出馬致しました。残念ながら、僅差で落選(最大獲票落選者)しました。すぐに、4年後再挑戦を決意、発表しました。しかしながら、サラリーマン家庭の出身であり、自らもサラリーマンとして生活してきた私です。資金があるとは到底言えない状況でした。その状況を助けて頂いたのが、森ビル株式会社、森稔社長でした。森ビル株式会社のおかげで、活動を4年間続けながら、家庭を守ることができました。
4年後、民主党にある程度風が吹き始めていました。その勢いの中で、足立区は、2人擁立することが決定しました。私と、区議会議員を4期務められ、衆議院議員の候補者となって、僅差で敗れたベテランの方でした。大変厳しい選挙となりましたが、4年間継続して活動することができたこと、私が一番若かったことなどが影響し、私1人だけが当選することができました。
その後は、与党自由民主党の失策が続き、民主党への大きな期待が生まれました。そのような状況の下で2期目の選挙が行われましたが、ものすごい追い風を感じました。要するに落選する心配は全くなく、何位で当選できるかなんて考えていました。私以外にもう1人新人を擁立しましたが、結果は、ダントツの1位、2位でした。民主党公認候補者の殆どが当選することとなり、都議会で第1党になりました。その直後、衆議院選挙が行われ、政権交代が実現したわけです。しかし、ご存知のように、政権運営の経験の無さに加え、東日本大震災や党内での足の引っ張り合いなどにより、民主党政権は3年強で幕を閉じる事となりました。民主党への期待、政権交代への期待が大きかっただけに失望感はさらに大きく、民主党に対する批判はとても強いものがありました。そのような状況の中、政権を失った半年後に3期目の選挙がありました。民主党を見限り、他党へ移る仲間も多くいましたが(前回当選した新人も他党へ移籍)私は、自分を育ててくれた民主党で戦い抜こうと頑張りました。多くの仲間が討ち死にする猛烈な逆風の中、なんとか最下位で当選することができました。しかし、当選した仲間は少なく、共産党よりも少数の第4党にまでなってしまいました。その時点では、山あり谷ありだから、4年後、少しは状況も好転するだろうと考え政治活動に精を出していました。しかし、状況はさらに悪くなっていく一方で、その状況に加え選挙前に小池知事が誕生し、都民ファーストブームが巻き起こりました。仲間の半数は都民ファーストに移って行きましたが、私は前回同様、民主党(当時は民進党)で頑張ろうと決意しました。私も選挙に対して十分な準備を進め、たとえ負けても最後まで戦い抜こうと考えていました。しかし、選挙が近づくにつれ、都民ファーストのブームはさらに大きくなり、民主党が(当時は民進党)足立区で勝ち残る可能性は全く無くなっていました。仲の良いマスコミ関係者からも「大西さん大変だよ、世論調査では、無名の都民ファーストの新人がトップ当選、民進党に勝ち目は全く無い」というものでした。自民、公明、共産としっかりした組織を持つ政党が勝ち、浮動票の殆どが都民ファーストへ行くという構図、すなわち、そこに私の場所が無いのは明白でした。
その頃、小さな幼稚園を運営する学校法人の経営を任せたいという話もあり、また、私のような関西人を3期12年間も都議会に送って頂いたことを感謝し、これからは「子どもが大好き」を実践で行っていこうと決めた次第です。
そこで、引退を発表することになりましたが、「負ける事が見えたから」とは言えず、健康上の問題としたのです。その後、多くの方々に「体は大丈夫なの?」と聞かれ、心苦しかったです。申しわけございませんでした。体は、なんの問題もありません。(最近は腰が痛いですが。)
選挙に不出馬を表明後、先ほどの小さな幼稚園(正確には認定こども園)を運営する学校法人の理事長に就任。就学前教育の責任者となりました。そこで、就学前教育が人生に及ぼす影響などを多く学びました。就学前教育の充実度が人生における幸福度と強い関係があるとする世界の論文を多く読み、就学前教育の重要性を強く認識しました。丁度その頃、政府が強く進めた待機児童解消政策の波に乗り、千葉県八千代市に1園、その次の年に足立区に1園、新たな保育園を開園致しました。現在は、それら3園を運営する学校法人の理事長として、日々子どもたちと楽しく遊んでいます。
この理事長職とは別に、今までの経験を買われ、何社かの会社の顧問や相談役にもなって色々な活動に尽力しています。更に友人と新たな会社も立ち上げ、なかなか忙しい、充実した日々を送っています。
一方、プライベートでは、コロナ禍の中で行動を制限され寂しい日々も送っている面もあります。私の趣味といえば、①海外旅行 ②ワイン ③ゴルフ がメインなのですが、最大の趣味である海外旅行は、コロナが始まる前である一昨年までは、ほぼ毎年(議員時代を含め)10回近く海外に行っていましたが、コロナ禍で、1度も行くことがなくなりました。折角取得したJALダイヤモンドステイタスも宝の持ち腐れとなってしまっています。2番目のワインは、楽しいワイン会を開くことが出来ないのが残念ですが、世界中のワインを取り寄せ、毎日、家で楽しんでいます。3番目のゴルフは、感染拡大防止対策をきっちり取っているゴルフ場の会員になり、週に1度以上は通っています。(なかなか、腕は上がりませんが)
その他では、電車を使うことが殆ど無くなった事もあり、移動の為に、家族用の車とは別に、少し派手な色のツードアーのスポーツカーを買って楽しんでいます。また、たまに、気の合う友人と野球をしたりしています。
最近は、以前のように人に気を使うことも少なくなり、人の目を気にすることも無くなり、更に、朝の駅に立つ必要も無くなり、とても自由な環境の中で子どもたちの笑顔に囲まれ気楽な日々を過ごしています。
家族も、皆健康で元気に過ごしています。長男は明治大学を卒業、就職しました。次男は、青山学院大学で青春を謳歌しています。三男は、まだ高校生ですが、バスケットにハマっています。妻は、いつ職を失うかわからない政治家の仕事から、安定性のある仕事になったためか、経済的な心配が無くなったことでとてもリラックスしているようです。
もう政治の世界に戻ることは考えていませんが、就学前教育には多くの課題があることがわかりました。子ども庁創設に向けて新しい制度が創られようとしていますが、何故、認定こども園制度が上手くいかなかったのか。幼稚園、保育園の課題を整理し、今の制度をツギハギするだけではなく、抜本的に改革して行って欲しいと思います。必要ならば、そのような場面では、はっきりと発言したいと考えています。
以上、4年前の選挙不出馬の理由と最近の近況を報告させて頂きました。改めて、皆様のご支援に対して御礼を申しあげます。また、都議会議員選挙が行われますが、本当に都民の暮らしが良くなるために働く議員が当選して下さることを願っています。皆様方のご多幸、ご健勝を祈念し、久しぶりの近況報告と致します。
大西さとる
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(2017年3月26日)
(2017年3月26日)